トロイメライ2
どうも。ひよりです。
昨日のつづきです。
この3年前のライブの時期って、私が仕事復帰して1年くらい、会社の大規模合併から半年で仕事がとてつもなく忙しい頃。
それでも私はライブに出ることを決めました。
前にも書きましたが夫は年の半年は出張で家におらず、その時期はちょうど長期出張中でした。
ライブの日が実家の両親の旅行と重なってしまい、子どもたちは義理の両親にお願いすることになりました。
義両親は快く了承してくれて「楽しんでおいでね~」と言ってくれたのですが、
私が気になるのは夫がこのことをどう思うか。。
2週間前に電話でおそるおそる報告すると「ちゃんとするなら行ってきてもいい」というお許しが出ました。(書いてて思うけど「許可」ってなんなん・・。)
当日、夜にかけてのスケジュールだったので義両親に子どもたちの夜ごはんを頼んで出かけ、出番まであと30分というところで夫から着信がありました。
「いまどこにいる?」
「前に話したと思うけど今日ライブにきてるよ」
「はあ?子どもたちは?」
「だから前に話したけどお義父さんとお義母さんに預けてるよ」
「だからなんで?なにうちの両親に迷惑かけてるわけ?」
「・・・」
「オレはちゃんとするなら行ってきていいって言ったんだぞ?子どものこともちゃんとできてないのに好き勝手していいと思ってんの?」
「・・・」
「で、何時に帰ってくる?」
「8時くらいになると思う」
「はぁ?それまで子どもたちどうするつもりなん?何考えてんの?」
「ちょっと待って。もうすぐ出番だから・・」
「とにかく早く帰ってこいよ」
一方的にまくしたてられて電話が切れました。
(あー・・書いてると一言一句思い出してきた・・覚えてるんだなぁ)
実家に電話したのかな・・もしかしてお義母さんが夫に「困るのよ・・」って愚痴ったのかなぁ。
あんなに快く送り出してくれたのにな。。
そんなことを思いつつも出番が来てステージに上がると、客席には5年ぶりのユニット再開を喜んでくれるたくさんの友人たちが来てくれていて。
あたたかいまなざしの中でとても楽しい時間を過ごしました。
出番を終えた後も友人たちと話したり、他の方の演奏を聴きたくて客席に残っていたかったのですが、気になってバックヤードに戻ると夫からの着信が何度もあっていて。
かけ直すと「いま何時か言ってみろ」と。
「6時過ぎ・・」
「で、いまどこにいるわけ?」
「まだライブの会場だけど・・」
「はぁ?まだ帰ってないん?子どもたちのメシは?」
「お義母さんに頼んであるよ」
「だからなに?母親なのはあんただろ?早く帰れよ」
友人たちに事情を話して会場を後にし急いで家に戻ると、
子どもたちは義両親と夜ごはんの最中でした。
「あら、早かったねぇ」とお義母さん。
「この子たちすごくお利口さんだよ~」と笑顔で晩酌をしているお義父さん。
いつもの義両親がいました。
「どうしたの?8時くらいになるんじゃなかったの?」
「はい。でも〇〇さんが早く帰ってこいと・・」
「なんで?あの子がそんなこと言うの?」
「お義母さんたちに迷惑かけるなと。母親なんだからちゃんとしろって怒られて・・
ほんとうにすみませんでした。」
「え?なんにもすまないことなんてないよ。迷惑なんて思ってないよ。
なんであの子そんなことを言うんだろう。自分は遠くにいて何も関係ないのにねぇ。」
心底不思議そうな顔をしながらそう言って、楽しめたかい?とか、久々で緊張しなかった?とほほえみながらライブの感想を私に促す義両親。
電話での夫との会話と、義両親の態度のギャップにとまどって頭がグルグルしました。
今なら分かります。
150㎞くらい離れた場所から、夫は私を電話でマインドコントロールしていたんだなってこと。
で、私もまんまとコントロールされてたってこと。
あの日、義両親と話していて、この人たちが心から私に対して迷惑だなんて思ってないということが分かり、
夫から言われた言葉を告げたときの、ふたりのポカンとした顔や
「そんなこと、あの子が言うことじゃないよね。自分は何もしてないのに・・」
「ほんと何様よね~」って苦笑するお義母さんのかる~い言葉に、なんか肩がガクッとなって身体の力が抜けて。
私なに一人で悲壮感漂わせてここに居るんだろうって。
まるでコントだ。
ひとりジェットコースターだ。
そうしたら怒りが沸いてきました。
それまでがんばって、がんばって、でも×しかつかなくて疲れて。
疲れて、疲れて、でも自分にご褒美をあげたくて。
私にとってライブに出ることは自分に〇をあげることでした。
みんなにもよかったよ~って言ってもらえて嬉しくて。
私は〇だなぁと思えて。
それは久しぶりの感覚で。
夫からの電話はそんな私をもとの×がついた私に戻したけど。
けど。
私に×つけてるのって、この人だけなんじゃない?
そう気づくと怒りが沸いてきました。
でもその時沸いた怒りは日々の生活に紛れてしまって。
私はまたそこからも自分に×をつける日々を何か月か過ごしたのでした。
トロイメライ
どうも。ひよりです。
YUKIちゃんの新譜『トロイメライ』、めっちゃいいですねー(*ノωノ)
トロイメライは「夢見心地」という意味。
曲のイントロから夢の世界へ誘われるかのよう。
聴いているとき、私は雲の上に乗っているイメージが湧きます。
私の大・大・大お気に入りの曲。
ゆったりとした曲調で音数も少なくてとても弾きやすく覚え易いです。
でも私、楽譜がないと弾けないんですよね・・。
2年前にいまのアパートに引っ越してきたとき、
眠らせていた電子ピアノを真っ先にリビングに置きました。
でも肝心の楽譜は段ボールに入れたまま、実家の物置に放置したままになっていました。
小説や漫画本などは、選別して残したかったものだけを本棚に収納したのに。
(うちには本棚はなく、実はシューズボックスの上段を本棚にしてます・・)
楽譜を入れた段ボールだけはなぜか開ける気になれず、
段ボールに入れてからは3年もの間、日の目を見ることがありませんでした。
でも今回『トロイメライ』をどうしてもどうしても弾きたくなって、
やっとのことで楽譜たちを新しいおうちに入れることにしました。
弾いていると別の世界にいるような、幸せなもやがかかった気分になります。
(トランス状態・・なんかやばそう・・)
すごく短いのですが、何度でもリピートして弾きたくなる魅力的な曲です。
約3年、ピアノに触っていない私の指はけっこう固くなっていて。
まあ、PCのキーボードを毎日触っているせいか、そこまでの違和感は
感じずにすんで、なんとなくほっとしました。
でも心の違和感はけっこうあって。
すごくうれしい!たのしい!という気持ちと同時に、思い出す出来事がありました。
それは元夫とはもう一緒にいられないな、と思ったきっかけのひとつでした。
結婚する前、私は友人とボーカル&ピアノのユニットを組んで、
地元のライブに出て演奏したりしていました。
一番最後に出たのは離婚した年の始め、2月ごろにあったライブでした。
結婚してからそれまで、誘われてはいたものの、子どもが小さいこともあって
5年もの間ライブから遠ざかっていたのですが、
次男を保育園に預けて仕事に復帰したこともあり、
久しぶりに唄いたいね~♪と軽い気持ちで出てみることにしたのです。
ごはんづくり2
どうも。ひよりです。
前回の続きです。
私がパートナーから「食べたい」と言われた料理はおでんでした。
おでんって、コンビニでも売ってるやん。
しかもコンビニおでんのがおいしいし。
とかとかとか。
色々思って結局今日になってもまだ作ってません。
んーーー。なんだろう。
ごはん。作ろうと思うとすっごく私の中身が抵抗するんですよね。
誰かと一緒に暮らしていくうえで、ごはんって必ずでてくるキーワードです。
自分ひとりが食べていく分には、作ったってコンビニだって外食だって、
正直どうでもいいんだけど。
子どもやパートナーと暮らしていると、ごはん、作らなきゃなぁ・・
って思ってしまう。
ごはん、作るの結構好きなんだけどなぁ。。
ごはん、作るのが「お役目」みたいに思えて、楽しく思えなくなっちゃうんでしょうね。
結婚していた頃、私と元夫の間の問題の何割かは「ごはん」でした。
「こんなもん食えるか!!」とか。
「メシの時間が過ぎてるだろうが!早く作れ!」とか。
「おかずこれだけしかないのか!なめてんのか!」とか。
ごはんを出す度に不平不満が出るわ出るわ・・。
専業主婦のお義母さんに育てられた元夫は、とにかくおいしいごはんにすごく固執する人でした。
実際、お義母さんのごはんはとっても美味しくて、いつでも出来立てでした。
当時私はフルタイム勤務で残業あり、子どもたちが1歳と3歳。
料理の腕でかなうわけもないうえに、お義母さんと私ではごはんづくりにかけられる時間がそもそも雲泥の差の中で夫に怒鳴られる日々。
あまりにしんどすぎて、夫だけ実家でごはんを食べさせてもらえるように、お義母さんに泣きながら頼んだこともありました。
(書きながら、「いや、そこは泣くとこではなく逆ギレするとこだよね」と過去の自分にツッコミを入れたくなる。)
家を出たあとに「つくおき」(作り置きごはん)にハマるのですが、
それはハマるというよりは、
「私には出来立ては作れない」
「私はレシピ通りじゃないとおいしいごはんが作れない」
という自分に対するレッテルが無意識にあったんじゃないかなと今では思います。
というか、今でもそう思い込んでると思います。
ごはんづくり
どうも。ひよりです。
私は人に気を使いすぎて疲れる癖があります。
気を使うというよりかは、「人に自分がどう思われているかが気になる」という方が正しいです。
人の目ばかりを気にして生きていると、自分の気持ちはついおざなりになりがちです。
自分の心の高下は分かるのですが、「なんとなくざわざわする」とか、「なんとなく嫌な気分だ」とか「なんとなくご機嫌だ」など、なんとなくの気持ちがふつふつとわいては消えていく、そんな感じです。
例えば人から嫌な態度を取られて自分の心がなんとなくざわざわした時、真っ先に考えるのが相手の「なぜ?」。「なぜ相手はそのような態度を取ったのだろう」ということ。
「なぜ私はああいう態度を取られるとざわざわしてしまうのだろう?」ということについて考えることはまずありません。
たとえばネガティブな感情が湧き続けたとして、それを発生させた他人をどうしようもできなければ(そもそも、他人をどうこうしようということはできない、ということは随分昔に学習している)、その感情を見なかったことにする。
そうして見ないことを続けると、その感情はあってもないことになって麻痺します。
でもその感情は「ある」ので、無意識にその感情を感じないために、その感情が発生しそうな状況を作らないように予防線を張る。
それがいわゆるトラウマというものなのかなと思うのです。
私にとってそれは「ごはんづくり」。
子どもたちには毎日何かしらのごはんを作るし、何の問題もなくこなすことができます。
こと、パートナーにごはんを作ろうとすると、何だろう、背すじが冷たくなり思考がぐるぐると回りだします。
「何を作ろう、あれが食べたいけど上手に作る自信はないし、食材はどこに買いに行こう、買い物リストがいるけど書きたくないし・・ああ、どうしよう・・」
と何かに追い立てられるように思ってしまう。
これ、結婚していた頃の後遺症だなぁと思います。
ちなみに今のパートナーはごはんに対して無頓着な人です。
食べたいときに食べればいいし、毎食コンビニでもよさそう・・。
なので今までごはんについて色々言われたことがないし、
わたしが気まぐれに作るとすごく嬉しそうに食べてくれます。
気まぐれに作ろう、と思い立っても実は心の中はざわざわ・・。
最後までちゃんと作れなくて味付けは彼に任せたり、
後片付けはしなかったりしてるのですが、そんなの全然気にならない様子。
わーい、手料理だー♪みたいな軽いノリで喜んでくれるし、
片付けもとっても手際よくやってくれます。
そらそうだ。色々と気にしているのは私なんですよね・・。
そんなこんなで「あれ食べたいから作って」と言われることなく今まできたのですが、
つい最近、彼が言いました。
「〇〇〇が食べたい」と。
また書きます。
自分と向き合うこと
どうも。ひよりです。
まだあんまりまとまってないのですが、いま感じたありのままを残しておきたくて
私信としてこれを書き残します。
いま私はみのりさんの「みのりッツション」という面談に向けて
自分の今までの経歴とか未来のありたい姿などを見直しています。
※ここにリンクを張り付けられない自分のスキルが悲しい・・
この面談を受けるにあたり、みのりさんから宿題がメールで送られてきたのですが、
これがとてつもなく難問・・。
自分自身と向き合うための質問が並んでいます。
彼女からも「きっと見て『うっ』となる質問ばかりです」と宣言されていましたが、
本当にひとつひとつが「うっ」というよりも「うーーー」と唸りたくなる内容。
それでも意を決して真剣に取り組んでいるうちに気づいてしまったのです。
自分が若いころに「なりたい」と思っていた自分。
でも大人になって挫折してそれをなかったことにしていたことに。
私、子どもと接するのが好きです。
子どもたちが日々成長していく姿を見るのが好き。
学生時代に小学・中学生向けの小さな学習塾の講師のアルバイトをしていました。
他の塾では手に負えなくて・・という子が駆け込み寺のようにして集まる塾で、
ほとんどの子が勉強が苦手でした。
でも、どんな子も苦手なままでも勉強がやれるようになっていくんです。それも笑顔で。
宿題やってこない子も多かったし、学習困難や発達障害の傾向が見える子もいました。
それでも学習に取り組めるようになる。
それはなぜか。
それは教える大人側に「見守る」力があったからです。
バイトは全員学生で時間があり余ってましたし、塾長もすごく大らかな(大雑把?)な人で、
10時までの授業なのに受験生は12時すぎまで平気で居残りさせたりして。
今の親であればクレームをつけるのかもしれないけど、その塾に通わせる親御さんは感謝こそすれ、苦情を言う人はひとりもいませんでした。
子どもたちの名前も呼び捨て。まさに近所の兄ちゃんとか姉ちゃんとかおじちゃん状態。
でもどの子にも真剣に向き合うから、子どもたちも信頼してついてきてくれる。
そんな塾でした。
就職した後も私はヘルプとしてその塾に残り続けて、結婚を機にそのアルバイトを辞めました。
結婚してすぐに長男を授かって、初めての育児。
当時の私はきっとすごく自信を持っていたんです。
子どもと接する機会は多かったし、成功体験もある。だからあたしは育児をちゃんとやれるって。
でも実際は違いました。
何もかも違いました。
本当は子どもと接することは得意じゃなかったんだ。
勝手に好きだと思い込んでたんだ。だってこんなにも育児をちゃんとこなせないんだもの。
いらいらして子ども叩いちゃうし。泣かせちゃうし。
本当は子ども好きじゃないんだ。こんな風にしか自分の子に接することのできない自分は子どもが好きだとか公言する資格はないんだ。子どもに不用意に接しちゃだめなんだ。
他人の子だから冷静に接してただけだ。好きとか愛情とかじゃなかったんだ。
そうやって自分責めを繰り返してるうちに閉じ込めてしまった、自分がやりたかったこと。
未来の姿。
それをいま、もう一度箱から取り出しておそるおそる手に取っているところです。
うまくできないとか、資格がないとかじゃなくて。
自分がやりたいこと。見つめなおしているところです。
「愛されてない」の証明
どうも。ひよりです。
長男(8歳)が、「どうせ僕のこと嫌いなんだろ」と寝入りばなの布団の中で泣き出すことがあります。
「なんでそんなことを思うの?」と聞くと、まあ色々と出てきます(笑)。
ごはんを残したときに怒られた、だの、宿題を終わらせてないから怒られた、だの、
とにかく彼は「お母さんに愛されてない」という証拠をたくさんたくさん積み上げていて。
「大好きだよ。〇〇が何しても嫌いになんか絶対ならないよ」と言ってぎゅーっと抱きしめると、安心して眠りにつきます。
ときどき長男は、わざと怒られるようなことをすることがあります。
それはまさにさきほどの証拠集めをしているかのよう。
何度たしなめても悪ふざけをやめなかったりして、「あと1回したら本気で怒るよ」と言ってもその1回をやってしまうのです。
ちなみに次男は、同じことを言うと大抵の場合やめちゃいます。
なんとなくですが、彼らの中の「自分」という存在の前提が違うような気がしています。
長男は「愛されてない」が前提。でもすっごく愛して欲しい。
ただ前提が「愛されてない」ので、それを真実とするために証拠集めをしちゃうんですね。
愛される行動でなく、愛されていないことを証明する行動を取ってしまう。
で私(母親)に「怒るよ!」とか「いやだ!」とかを言われて
「ほうら!やっぱり僕は愛されてない・・」とさらに前提を深めていきます。
対して次男はというと、彼は「信頼されてない」が前提のようです。
これまた「信頼されてない」を証明するために、彼はよく嘘をつきます。
まだ5歳なので嘘もかわいいものですが・・
一番多いのは「歯磨きしたよ」です(笑)。
朝のお出かけの忙しい時間についつい子どもたちをせかしてしまうのですが、私のせかし言葉の一つが「歯磨きした?」なのです。
それに対し長男は「まだー」とか、「あ!忘れてた」と返すのですが、
次男はしれっとした顔で「したよー」と返してきます。
いやいや、口のまわりたまごの黄身でまっきいろだろ?っていう時も多々あります。
「口が汚れてるでしょ!嘘ついたね!」と怒っても素知らぬ顔。
次男は嘘をついたことを私に悟られていることは承知の上なのです。
おもしろいことに長男は「愛されてない」けど「信頼されている」、
次男は「信頼されてない」けど「愛されている」という前提を持っているようです。
自分に置き換えてみても前提というのは怖いもので、よいものにしろわるいものにしろ、その前提を持っている以上、それを真実とするために補強するために無意識に行動しています。
私も長い年月をかけて「愛されてない」を補強している人間でした。
でもこの前提、たくさんたくさん証拠を集めても、いっぱいいっぱい補強しても、バリーンと、ガラスのように粉々に打ち砕かれることがあるんです。
もちろん自分の意思で打ち砕くことだってある。
長年かけたそれは強化ガラスになってたりして、最初はヒビしか入らない・・なんてこともあるかもだけど。
いきおい余って打ち砕いたら、ガラス片が硬くて大きくてざっくりケガすることもあるかもしれないけど・・。
それでも前提は打ち砕けるし、打ち砕かれる。
私は身を持ってそれを知っているので、彼らの前提については問題視していないのです^-^
だいじょうぶ。なるようになるよ!って思ってます。
怖いと思うことから逃げる
どうも。ひよりです。
前回の続きです。
怖いと思った理由。
それは「今までのライフスタイルを続けられなくなる」という不安からくるものでした。
体調を崩したことで物理的にも職場に行けなかったということもあるのですが、一番は、このまま続けるときっと会社を辞めることになるって、それがはっきり分かったからです。
15年勤め続けている職場は環境の変化が激しく、今後のキャリアに行き詰まりを感じています。
「このままでいいのかな、あたし」という漠然な不安を常に抱えていて。
愚痴をこぼすように「あー、会社辞めたい!」と思ったり口にすることは今までもありましたが、それはまさに愚痴でしかなく。
それがブログやモーニングページを書くことでただの愚痴ではなくて、「会社を辞める」ことが未来の現実(?)としてはっきりしてきたのです。
んー、書いていてもまとまりませんが。
とにかくそれが怖かった。
恒常性、という言葉があります。
人でもモノでも、今ある状態を常にキープしようという性質があるのですが、それが保てなくなることによる不安。
また現実にもなってないのに(笑)。でも現実になることを知ったからこそ起こる不安。
その不安や怖さから逃げたのだなって、今はそう理解しています。